▲一遍上人の講話を聴きに、雨の中参集する人々。部屋の外に、閉じて立てかけた傘が見える。
(出典:国会図書館 デジタルコレクション『一遍聖繪』巻5)
久方の天(あま)ゆく月を網に刺し わご大王(おほきみ)は蓋(きぬがさ)にせり
柿本人麿『万葉集』巻3-240【訳】遥か天空をゆく月を網にとらえて、わが皇子はその月を天蓋にしているよ。
雨の多い時期はもちろん、夏の日よけにも欠かせない傘。日本では、実用品としてすでに千年以上の歴史がある傘ですが、傘とは本来どのようなものだったのでしょうか。
古墳~奈良時代:貴人の権威を表す、古代の傘
世界史上の傘の起源は、古代オリエントと言われています。アッシリアやペルシャ、エジプトなどのレリーフや絵画には、王の頭上に差しかけられる傘が描かれています。
日本では、4~5世紀ごろの古墳時代の遺跡から、絹などの布を張った木製の傘、つまり「蓋(きぬがさ=衣笠)」を象った蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)や、蓋の上部に飾りとしてつける木製の立ち飾りの現物が出土しています。これらは、王や豪族の威容を示すための道具であったと考えられています。
【写真出典】
蓋形埴輪:Wikipedia, by Saigen Jiro、サイズのみ調整
蓋立ち飾り:文化庁ホームページ、サイズのみ調整
絹でできた「蓋(きぬがさ)」
東京国立博物館の法隆寺宝物館に収蔵されている「太子絹笠」は、聖徳太子(574-622)が斑鳩宮(いかるがのみや、現法隆寺東院)から、推古天皇の宮であった小治田宮(おはりだのみや、現明日香村豊浦)への参内の際に用いた差し傘の蓋布と伝えられ、方形の蜀紅(しょっこう)という、紅糸で織られた錦が使われているといいます。
高松塚古墳(694年 - 710年頃)の「男子群像」には、この「太子絹笠」と似たタイプと思われる、方形の蓋布の四隅から総角(あげまき=紐飾り)を垂らした差し傘が見られます。飛鳥時代に制定された『大宝律令』(701年)には、儀式用に使用する蓋の色が、身分によって決められていました。これによると、高松塚古墳に描かれた、緑色の蓋布に四隅に朱色の錦と緑色の総角をあしらった蓋は、一位以上の大納言のものであると言えます。
皇太子 | 表:紫 | 裏:蘇芳 |
---|---|---|
親王 | 表:紫纈 (むらさきゆはた 1) | 裏:朱 |
一位 | 表:深緑 | 裏:朱 |
二~三位 | 表:紺 | 裏:朱 |
四位 | 表:縹 (はなだ 2) | 裏:朱 |
1) 紫纈(むらさきゆはた):大きな文様の、紫色の絞り染め。
2) 縹(はなだ):薄青。
この傘は、柄の先に骨組を引っかけて吊るすような仕組みになっていたようです。「太子絹笠」の蓋布のみが残っていることから、使わないときは柄と蓋布は別々にして保管していたのはないでしょうか。
【写真出典】
全国遺跡報告総覧・高松塚古墳壁画フォトマップ資料
平安時代:実用品としての傘
主に絹でできた「蓋(きぬがさ)」が、貴人の儀式や祭事に使われていたのに対し、「大傘(おおがさ)」は、布のほかに竹や菅、もしくは紙に油を引いたものでできており、雨の時にも使用されていました。
平安時代中期の辞書である『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(938年)には、旅行用の道具として蓑笠(みのがさ)とともに大傘が「柄の有る笠」として掲載されています。平安文学には、実用品としての雨傘が頻繁に出てくるようになります。10世紀末に書かれたラブコメディ『落窪物語』には、雨の夜にヒロインの姫君のもとに通うかどうかを迷った少将が、お供の者に傘を探させて出かけていくくだりがあります。
「大傘一つ設けよ。衣ぬぎて来む」とて入りたまひぬ。帯刀、傘求めに歩く。
『落窪物語』【訳】 「大傘を一つ探して来い。着物も脱いで来なくちゃな」と言って、少将は部屋にお入りになった。お共の帯刀は、傘を探しに行った。
この場面の大傘がどのような形状だったのかは不明ですが、旅行道具とされ、家のどこかに収納されているということは、今の傘と同じようにすぼめることができていたのかもしれません。
絵巻物に描かれた傘
雨傘が絵画に初めて出てくるのは平安末期(12c)の『源氏物語絵巻』です。「蓬生(よもぎう)」の帖では、雨の中、光源氏が傘を差して末摘花の館に向かう場面が描かれています。この傘は端折傘(つまおれがさ、骨の先端が内側に曲げられた長柄の持傘)と言い、参内など、公家の外出時に従者が袋に納めて持ち運んでいたそうですから、当然閉じて収納していたのでしょう。
下りたまへば、御先の露を馬の鞭して払ひつつ入れたてまつる。雨そそきも、なほ秋の時雨めきてうちそそけば、「御傘さぶらふ。げに木の下露は、雨にまさりて」と聞こゆ。御指貫の裾は、いたうそぼちぬめり。
紫式部『源氏物語』蓬生【訳】 源氏がお車からお降りになったので、惟光はお足もとの露を馬の鞭で払いつつ、館へとご案内する。雨の雫もまた、秋の時雨と同じように降り注ぐので、「お傘がございます。まったく、木の下露は雨にまさりますね」と申し上げる。源氏の御指貫の裾は、たいそう濡れてしまっているようだ。
しかしながら、ここではお供の惟光は傘を差さず、源氏の露払いをしていますから、このころはまだ、傘は一部の上流階級にのみ許されたものであったことがうかがい知れます。
鎌倉時代:傘が普及する兆し
鎌倉時代の『一遍聖繪(いっぺんひじりえ)』(1299年)は、踊念仏で有名な一遍上人の布教活動を描いた絵巻物で、傘を差す人々が非常に多く描かれています。雨傘・日傘を差している場面だけでなく、閉じた傘も描かれており、現代の和傘と似たような機構の傘が一般に使われていたことが確認できます。
また、この絵巻物では、上人の講和に向かう人々など、それほど身分が高くないと思われる人も、笠だけでなく傘を差していますから、このころには日用品として一般に普及しはじめていたのでしょう。
冒頭の歌は、天武天皇の皇子である長皇子(ながのみこ)が、猟に出たときに柿本人麻呂が詠んだものです。天空に浮かぶ月を皇子のものとして蓋(きぬがさ)になぞらえるあたり、当時の権威的な傘の存在を象徴するようです。
かつては貴人のみに許される特別な品であった傘も、長い年月をかけて市井の人々の日用品として生活に欠かせないものになっていきました。雨や炎天下など、不快な状況から身体を守ってくれる傘に感謝して、大切に使いたいですね。